Date: Sun, 3 Dec 1995 16:21:02 +0900

---------------------------------------------------------
bogomil's CD collection #13          ○○○○◎◎○◎
---------------------------------------------------------
映画《人間ベートーヴェン》
クラシックの通説を検証する(3) 作曲家は偉大?

 どうも私たちは、個人の特定の才能や能力を拡大解釈して、全人的な評価を下しが
ちだ。たとえば、プロ・スポーツの有名選手が賭博行為で摘発されたとする。すると
、しばしば新聞などに「青少年に夢を与えるスポーツ選手がこういうことではけしか
らぬ云々」というコメントが掲載される。しかし、よく考えてもみてほしい。スポー
ツの才能や能力があるからといって、道徳的・倫理的に高潔な人物である、という保
証はどこにもない。むしろ、専門的な技術の鍛錬にのみ努力してきたような選手は、
えてして社会性が欠如し、また若くして多額の報酬を得るようになれば金銭感覚がマ
ヒし、不法行為に走らないまでも、庶民ではとても手の出ないような高級外車を乗り
回したり、というような贅沢な生活に溺れるケースも見受けられるのである。

 音楽の分野では、ときおりロック・ミュージシャンなどの薬物使用の問題が物議を
かもす。これは、現在の世間の常識では不道徳とされることだが、もともと音楽の官
能性や快感というのは、ある種の薬物がもたらす幻覚などと紙一重のところにあるの
かもしれないし、古くから呪術やある種の宗教儀式において、薬物のもたらす高揚感
から音楽が生まれることもあったのだろう。音楽の在り方というのは、必ずしもすべ
てが、権力や体勢の側から見て「健全」で「道徳的」なものではない、ということも
忘れてはならない。ここだけの話だが、某国の著名なクラシックのオケが帰った後の
楽屋に、マリファナを吸ったとおぼしき痕跡が残されていた、という話を聞いたこと
もある。

 さて、かつて「偉大な作曲家」というタイトルのCDブック全集が書店に並んだこ
とがあった。しかし、ほんとうに作曲家は「偉大」なのだろうか。確かに、いわゆる
大作曲家の残した音楽は「偉大」だ。しかし、もしそうならば、「偉大な曲の作曲家
」というべきであって、「偉大な作曲家」という表現は適切ではない。「偉大な作曲
家」といってしまうと、全人的に「偉大」という意味に解釈されてしまうからだ。

 たとえば、ベートーヴェンの場合。彼の残した交響曲、室内楽、ピアノソナタは「
偉大な芸術作品」と呼んでよいだろう。しかし、だからといって一個の人間としての
ベートーヴェンも偉大だった、といってよいものだろうか。現存する資料からすると
、彼は不潔でだらしなく、どこでもかまわず、つばを吐き散らし、偏屈でわがまま、
演奏会の収入が少ないと、友人が横領したのではないかと疑う猜疑心の強い人物だっ
たという。また耳が聴こえなくなっても作曲した、ということがよくベートーヴェン
の「不屈の精神」を示す例として取り沙汰されるが、いくら現代ほど医療が発達して
いなかったとはいえ、そうそう簡単に耳が聴こえなくなるものだろうか。

 彼はしばしば下痢に悩まされ、膵臓が肥大し、直接の死因は肝硬変だった。聴覚の
異常は26歳ころから始まっており、デスマスクを見ると、頭蓋骨に隆起が見られる。
D.ケルナーは、これらの症状はベートーヴェンが梅毒だったことを示している、と
結論づけている。ケルナーは、この梅毒は先天性、あるいは後天性のもの、としてい
て、わずかに逃げ道を残しているのだが、いずれにせよ、ベートーヴェンの難聴が梅
毒によるものだったとしたら、現代の常識からすると、あまり名誉なことではない、
ということになってしまう。

 誤解のないように言っておくが、ここで筆者は決してベートーヴェン個人や彼の音
楽を貶めるつもりはない。ただ、「偉大な曲を残したからベートーヴェンは人間的に
も偉大だ」というような拡大解釈はすべきではないし、現代の尺度で彼の人間性をど
うこういうべきでもない、ということなのだ。作曲家の人間性や個人的な問題と、作
品の価値は切り離して考えるべきで、この点をゴッチャにして、作品の価値を全面的
に作曲家の人間性に帰してしまうと、「ベートーヴェンは梅毒だったから、あれだけ
の作品を作曲することができた」などという、とんでもない話にもなりかねないので
ある。

 この点、旧東ドイツで作られた映画《人間ベートーヴェン》*は、地味ながら一見
の価値のある作品だ。前述したようなベートーヴェンの性格をかなり細かく描いてい
るから、「偉人伝」を読んでベートーヴェンは偉い、と思い込んでいる人にはショッ
クかもしれないが、しかしそれでも、ナスターシャ・キンスキーがクララを演じた映
画《哀愁のトロイメライ》でのロベルト・シューマンの描き方に比べれば、かなり史
実に近いベートーヴェンを描いている。つまり、「いいとろこも、悪いところも含め
て、ベートーヴェンを愛しましょう」という姿勢といってよいだろう。これは、自説
に都合の悪い面は故意に無視するような評伝よりは、まともなアプローチといえる。
ただしこの映画、当然のことながら細部にはフィクションがあり、結果としてベート
ーヴェンを理想化しているので、これがベートーヴェンの「実像」と思ってはいけな
い。そもそもベートーヴェンは身長160cmそこそこだったが、この映画に出てくるベ
ートーヴェンはずっと背が高いのである。

*Discography:
音楽劇映画《人間ベートーヴェン−その生涯のある日々(Beethoven - Tage aus ein
em Leben)》(DMLB-28、発売元ニホンモニター、販売元クラウン、LD)

【付記】
(1)この映画は、いくつかのエピソードが連なったもので、筆者が最初に見たのは抜
粋され、編集された日本語字幕付きの市販ビデオ・テープだった。やがてLDのオリジ
ナル版が発売されたので見たところ、おもしろいことに気付いた。オリジナルには、
ベートーヴェンとジョセフィーネが宿屋のベッドの上で語り合うエピソードがあり、
シーツでおおわれているものの、ふたりが抱擁し合うシーンもある。また、他のエピ
ソードには、ベートーヴェンが夢の中で半裸の女性にうなされる、という部分もある
。しかし抜粋版では、こういった部分がすべてカットされていた。販売会社が、学校
の音楽の授業ででも使ってもらおうということで、この種のシーンをカットしたのだ
とすれば、大したお笑い種である。
(2)そうこうしているうちに、ベートーヴェンを扱った映画が公開された。(今度は
犬の話ではない)。まあ、フィクションと割り切ればいいのかもしれないが、また特
定の作家なり、映画監督なりの頭の中で作り上げられたベートーヴェン像が流布しそ
うな気配だ。

95/01 rev.95/12