Date: Sat, 9 Dec 1995 09:43:41 +0900

bogomil's CD collection #20       ○○○◎○◎○○

クラヴィコードで聴く
バッハ:《フランス組曲》

 J.S.バッハ自身は、主に3種類の鍵盤楽器を演奏した。パイプオルガン、チェンバ
ロ、クラヴィコードである。特殊なものとしては、ガット弦を張ったチェンバロを持
っていたというし、晩年には、初期のピアノも数回、演奏したと伝えられているが、
バッハが主に演奏したのは、上述の3種だったと考えられている。したがって、バッ
ハの鍵盤作品は、この3つの楽器のいずれかで演奏するために書かれた、と考えてよ
いだろう。

 しかし、個々の作品が、厳密にどの楽器で演奏されたのか特定するのはむづかしい
。そもそも、バッハ自身が、自分の曲すべてについて、排他的に特定の楽器を想定し
ていたかどうかもよくわからない。バッハの鍵盤作品のうち、オルガン用と他の2種
の楽器用の作品の区別は、比較的容易だ。バスの声部が、足鍵盤を用いなければ演奏
できないような書き方がなされていれば、それは、まずオルガン用と考えて差し支え
ない(ただし、バッハはオルガン曲も3段譜ではなく、2段譜で書いているので、こ
の区別も絶対的なものではない)。

 残る作品は、チェンバロか、クラヴィコードで演奏された。「2段鍵盤で」と指定
されていたり、曲中にf、pの表記があれば、2段鍵盤チェンバロ用である(この場合
のf、pは、2つの鍵盤の対比を意味する)。また、ヴィヴァルディの協奏曲のように
、ソロとトゥッティで演奏されるスタイルで作曲されているものも、2段鍵盤チェン
バロ用だ。《イタリア協奏曲》、《ゴルトベルク変奏曲》、《イギリス組曲》などが
、このタイプに属する。

 チェンバロは、非常に華やかな、銀の鈴を鳴らすような響きに特徴があるが、音量
は均質であり、個々の音に強弱を付けることができない。鍵盤交替によって可能とな
る強弱変化は、強いか弱いかの2種類だけで、中間の強さを出したり、クレシェンド
やディミニュエンドすることはできない。したがって、華麗で、技巧的な作品には向
いているが、微妙な陰影の表現は、どちらかといえば苦手だ。

 これに対し、クラヴィコードでは、ごくわずかだが、個々の音に強弱を与えること
ができ、クレシェンドのような無段階の音量変化が可能だ。クラヴィコードでは、小
さな鉄片(タンジェント)が弦をたたくことによって音が出る。打弦という点では、
ピアノと同じだが、大きな違いがある。ピアノでは、振動する弦の張力と長さは、あ
らかじめ固定されているが、クラヴィコードでは、打鍵して初めて、タンジェントと
片側のピンまでの弦長が決り、振動する。そして、このときの弦の張力は、キーの押
え方で微妙に変化する。このために、クラヴィコードでは、強くキーをたたくと、や
やピッチが上がり、弱くたたくと、ピッチが下がる。したがってクラヴィコードの演
奏は、ピアノやチェンバロよりもはるかにむづかしい。打鍵には、極度に神経を使う
。また、音を保持するためには、打鍵後も、一定の力でキーを押し続けなければなら
ない。タンジェントが弦を確実に押えていないと、ピッチが変化したり、音がビリつ
いてしまうからである。

 しかし、このために、クラヴィコードでは、他の鍵盤楽器では不可能な効果を出す
ことができる。打鍵後、キーを押す指の力を変えれば、なんとビブラートをかけるこ
とができるのである(ベーブング奏法)。また、三味線や箏のように、発音後に、ピ
ッチをわずかに下げたり、上げたりすることもできる。バッハが、実際にどの程度、
音を変化させたかは現在では不明だが、息子のエマヌエルの残した記述から推測して
、なんらかの方法でこの効果を用いたことは充分、考えられる。

 さて、このような特殊な性格を持つクラヴィコードでは、あまり複雑な音楽は演奏
できない。したがってバッハの鍵盤作品のうち、比較的、簡単そうに見える曲はクラ
ヴィコード用の可能性がある。《インヴェンションとシンフォニア》、《フランス組
曲》、そして《平均律クラヴィーア曲集》の一部は、クラヴィコードを意図したもの
である可能性がある。中でも《フランス組曲》はクラヴィコードで演奏したとき、独
特の効果を上げる。これまでLPでしか聴けなかったサーストン・ダートの歴史的名
演(1961年録音)が1992年にCD化されたので聴いてみよう。

 第1番ニ短調のアルマンド。高音にわずかにヴィブラートがかかる。特に第9小節
右手のhやaはゾクッとする。サラバンドになると、和音の連続が、独特のピッチの「
ゆれ」によって表情豊かになり、平板にならない。特に第9、13小節の和音は、なん
ともいえない味わいだ。ピアノやチェンバロではピッチが正確に維持されるので、音
に透明感があるが、これは冷たい響きにも感じられる。クラヴィコードでは、ピッチ
が不安定になるが、その分、人間的な感じがするから不思議だ。もちろん、《フラン
ス組曲》をチェンバロで弾いてはいけない、ということはない。たとえばクーラント
やジーグ、中でも第5番のジーグなどは、チェンバロで華やかに、一気に突っ走るの
も爽快だ。

 ところでクラヴィコードのCDを再生するときは、できるだけ音量を小さくしなけ
ればならない。低音が、「ベンベン」といった感じで気になるようだと、音量過大だ
。クラヴィコードの音は、演奏者自身にさえ、かすかにしか聴こえないほど、繊細な
音だからである。さらに、CDを聴く時間帯にも制限がある。一般的な日本の環境で
は、騒音の多い昼間はとても聴けない。おそらく、深夜に聴かなければならないだろ
う。クラヴィコードが極めて個人的な楽器で、人に聴かせるにしても、10〜20人が限
度だろう。しかも、極度の静寂が要求される。とてもコンサートホール向きではない
。チェンバロよりも、さらに静粛な音環境を必要とする楽器だが、逆に、騒々しい現
代社会は、「クラヴィコードが演奏できる音環境」をめざさなければならない、とも
いえるだろう。

Discography:
フランス組曲/イタリア協奏曲・ダート/マルコム(LONDON POCL-2883 436 777-2)

92/11 rev.95/12