私見

 あくまでも、私見です。物事をある側面からしか見ておらず、真実からかけ離れている可能性があります。

ふるさと納税

 「ふるさと納税」の仕組みをうまく「活用」している方もいらっしゃるとは思いますが、返礼品目当てで縁もゆかりもない自治体に納税するのは、ちょっとどうかと考えています。
 真の「ふるさと」に納税するというのは、意味があると考えます。行政サービスが進まなければ「住みにくい街」になって人が減り、人が減れば各種企業が撤退し、ますます人が減ることになる「負のスパイラル」に陥ります。やがて、消滅する都市が出てくる危険性があります。
 高校卒業後、大学進学や会社の就職をするときに、都市部に引っ越すことは、ままあることでしょう。そのときに、現住の自治体と本籍地の自治体へ自動的に住民税が配分される仕組みにするのが妥当と考えます(配分率には議論の余地があることでしょう)。


メールのクロスポスト

 研究活動用のメーリング・リストに送信されたメールの冒頭に「クロスポスト、失礼します」のような旨の断りが書かれていることがあります。これはつまり、複数のメーリング・リストに同じ内容のメールを送信することを指します。
 当方にとっての「クロスポスト」というと、NetNews でのクロスポストが想起されます。これは、ある記事を複数のニュース・グループに投稿することであり、記事のヘッダに複数のニュース・グループをカンマ区切りで列挙することです。この記事にリプライすると、基本的に当該の複数のニュース・グループに投稿され()、議論の流れが追いやすくなります。
 一方、「マルチポスト」は、これと異なり、個々のニュース・グループに記事を単発で投稿することを指します。各々のニュース・グループで議論が展開されることになり、記事がバラバラになってしまい、複数のニュース・グループを閲覧しなければ議論の全てを読むことができなくなります。そのため、忌み嫌われていました。
 To: に個々のメーリングリストを記載して送信しているメールは、つまり「マルチポスト」であるというのが、当方の見解です。
 NetNews は Web の掲示板の隆盛によって正直、大分 廃れてしまいましたが、今も時折 目にしています。


 Followup-To: ヘッダをつければ、あるニュース・グループに限定して記事が投稿されます。それによって、関係のあるニュース・グループにのみ誘導することができますが、Followup-To: ヘッダがついていることに気づかないと、それに指定されていないニュース・グループの読者は記事が投稿されていないと勘違いすることがあります。そのため、記事の本文の冒頭に、Followup-To: ヘッダを付加していることを記述するという暗黙のルールがあります。


Android SDK で生成されるパッケージ名

 Android SDK を使って作成したプログラムから APK ファイルを生成するわけですが、パッケージ名など、さんざん固有の値を使っているにも関わらず、生成される APK ファイル名がデフォルトで app-debug.apk というのは、異常です。当方の設定が悪いだけならよいですが(状況としてはもちろん決して良くはない)、本当にデフォルトでそうだとしたら、はっきり言っておかしいです。何のファイルか分からないではないですか。

 何故か、ググっても解決方法が分かりませんでした。皆さん、悩んでいないのでしょうか。ともあれ、いろいろいじって、ようやく分かりました。
 Android SDK を起動してプロジェクトを作成/呼び出すと、ウィンドウ左の Project ペインで Android が選択されていて、プロジェクトに関係するファイルやクラスが木構造で表示されます。このルートが「app」になっていますが、これを右クリックして「Refactor」→「Rename」して任意の名前に変更してから build すると、APK ファイルの prefix にそれが使われます。ただし、この方法がベストな解かどうかは分かりません。もしも、これが「正規の方法」であるならば、やはりおかしいです。
 別解として、build.gradle を修正する方法があります。


静岡県の条例改正の動向

 先日、あるテレビ番組にて、静岡県のお茶に関する条例改正の動向について取り上げられていた。
 これまで、静岡県では県の条例(静岡県製茶指導取締条例:通称、製茶条例)で、お茶に添加物を入れることを禁止していた。このような条例は、全国でも静岡だけというが、その条例を廃止しようという動きがあるという。

 現在では、食品衛生法や食品表示法が整備されなくても食の安全が確保できることもあり、「昭和31年に作られた製茶条例の役目は終わった」という理由から、静岡県が廃止を検討しているという。

 都内のある高級茶の専門店のお客は、「家だと全然お茶は淹れない」や「急須はない」などと話しており、自宅でお茶を淹れる人が減っている様子である。静岡県茶の出荷額はピーク時の半分以下になっており、かつて国内の半分以上を占めていたシェアも大きく減っている。このような苦境だからこそ条例を廃止し、新商品の開発を促すべきとの考えもある。たとえば、他県では、茶葉には旨味成分(アミノ酸など)や着色料を添加した商品があるという。また、果肉やハーブをお茶にブレンドした「フレーバーティ」が女性に人気だそうである。ある製茶の社長は、「静岡がお茶王国というならば豊富な品揃えをして各地域で好まれるお茶を提供することが大切」と述べている。

 静岡県の製茶条例の廃止は賛否両論があり、県民の声を聞くパブリックコメントでは約80%が条例の廃止ではなく、存続または改正を望んでいる。
 通常の観念からすると、ひとたび条例廃止をしたら、次は同じような「禁止」の条例は作れないこともあり、静岡県は条例廃止を9月の議会にかけることを断念したという。

 以上が、テレビ番組を通じて知った内容の概要である。これは難しい問題であるが、私は、条例は変えるべきではないと考えている。
 これまでは、「静岡のお茶」=「天然100%」という方程式が成り立っていたわけで、「本物のお茶」を購入したい人は、静岡のお茶を手にとって迷わず買っていたはずである。
 ところが、もしも条例が廃止された場合、お茶を買う人はどのような行動をとるだろうか。恐らく、本当にお茶にこだわる方は、成分表示を確認し、「天然100%」であることを調べるだろう。そして、もしも「天然100%」でなければ、それをひたすら探すことになる。要するに、「面倒になる」のである。パッケージの裏面を見るだけでも少し面倒だし、まして、複数の店を渡り歩くということは、かなり面倒だ。

 皆さんは、たとえば、外食をするときにどのようなメニューを注文するだろうか。もしも同じ店に入ったならば、同じようなメニューを注文していないだろうか。これは、リピータ創出コンサルタントの一圓克彦先生いわく、「いろいろ、あれこれ考えるのは面倒だから」という。過去に注文したメニューの味や分量などに特段の支障がなければ、それを再び頼むことには何ら問題がないわけで、安心して注文できる。この「安心感」や「安定感」は、リピータ創出の強い武器となるという。確かに、少なくとも、自分にはそれが当てはまって、大抵、同じ注文をする。
 昭和31年に制定された製茶条例が「古い」といえば、そうかもしれない。しかし、それをずっと守り続けてきたことは、間違いなく「強み」である。他県が今からそれをやろうとしても、恐らくは無理だろう。そのような、「他の追従を許さない」ということが業界最高峰であると考えられる。「静岡のお茶」=「天然100%」や、「あの店に行けば静岡のお茶が買える」という「安心感」や「安定感」は、リピータ創出にとって絶大である。
 少子高齢化の進む現在において、新規顧客の創出は、かなり難しいだろう。そのため、顧客の新規開拓を推進するのではなく、「お得意様をいかに大切にするか」ということが肝要といえる。ある飲食店がテレビ番組で取り上げられた場合、最悪の場合、しばらくすると、つぶれてしまう。それは何故か。お客が増えるものの、それは、いわゆる「一見さん」であって、何となく話題だからということで訪れたいわば「野次馬」のようなお客である。すると、どうなるか。行列ができるほどの「一見さん」によって一時的に売上は上がるものの、「常連さん」の足が遠のくのである。「一見さん」は長い行列で長時間待たされてもへっちゃらである。何しろ、1度だけの「娯楽イベント」だからであり、そのような状況そのものが楽しみの1つともいえる。あるいは、「自分は、例のあの店で2時間も待った」という「自慢」をしたいのかもしれない。一方、「常連さん」はどうか。普通、食事をするのに、2時間も待てない。店の雰囲気も、「一見さん」がたくさんいると何となく落ち着かない。ところが、「ブーム」は、そのうち過ぎ去ってしまう。もしも「ブーム」が去って、すぐに注文・食事ができる状況に落ち着いたとしても、ひとたび「あの店は長蛇の列ができて、いつも待たされる」という図式(思い込み)が出来上がると、それを払拭するのは難しい。「一見さん」は、現状をいちいち調べない。1度行けば、満足する。そのため、大挙して押し寄せた新規顧客のうちで「常連さん」になる確率は、かなり低く、実は、大して期待できない。その状況において「常連さん」もいなくなると、これまで安定して来店していたお客が減り、すなわち、売上が落ち込む。そのため、テレビ局からの番組オファーがあっても、かたくなにお断りする店舗もあるという。
 添加物を入れた静岡のお茶が安定して売れればそれに越したことはない。しかし、果たして、その目論見通りになるだろうか。もしかすると、「新しい静岡のお茶」によってうまくリピータ客を確保できるかもしれない。その一方で、目先の利益を追求して単なる「一見さん」が集まって終わってしまうのであれば、致命的な大打撃を受ける危険性がある。何しろ、「どこで生産されたものであるか」ということがほぼ無意味となり、したがって、価格競争に巻き込まれる可能性がある。消費者は、同じようなものであれば、当然ながら安いものを手に取る。「高くても、良いもの」という「ブランドとしての価値」がなくなったときに、どうなるだろうか。
 「この問題は難しい」と上述したのは、経済の専門家でも何でもない私には本件の将来が読み切れないからであり、この文章は、全く持って無責任ですね…。

 ちなみに、前述の一圓先生は、毎日、いかなる状況においても、一日も欠かさずにメールマガジンを配信している。後で埋め合わせるのではない。必ず、その日のうちに配信している。受信登録している私も、当然ながらそれを読んでいるわけであるが、時折オフライン環境に身を置くことがあり、2〜3日分をまとめて読むこともある(失礼)。2017年8月25日時点で、1131件目である。この数字、もはや、やろうと思ってもなかなかできないレベルになっている。一圓先生が、何故、毎日メールマガジンを配信しているのか。興味のある方は、検索してみて下さい。


SD カードの Lock 機能の謎

 SD カードには、スライド式の Lock ノッチが装備されている。 しかし、はっきり言って、これは害悪なだけと考える。
 デジカメで撮影しようとしたとき、書き込み禁止と警告される。 今まさに撮りたいというときにそうなると、心底、腹が立つ。 さらに、ノッチはSD カードの側面についているために、引き出して Lock を解除して再び戻すときに、ノッチが SD カード・スロットと接触して、また Lock 状態になることがある。 そうなると、本気でノッチを壊したくなる。

 かつて、カセットテープにはツメがあり、それを折ると録音禁止となった。 セロハンテープなどで穴を覆うと、再び録音できる。
 5インチ・フロッピーディスクの場合は、ジャケットに切り欠きがあり、その穴が空いていると書き込みが可能で、ライト・プロテクト・シールを貼って切り欠きを覆うと、書き込み禁止となる。今にして思えば、カセットテープとは逆である。
 3.5インチ・フロッピーディスクは、プラスチック・ケースで構成されており、スライド式のライト・プロテクト・ノッチがあった。ケースの穴が塞がれていると書き込み可能で、穴が空いた状態だと書き込み禁止となる。MD も同様である。スライド式という観点からすると、SD カードはこの方式に近い。
 USB メモリは、ハードウェア的な書き込み禁止の機能を備えているものもあるが、それを搭載していない商品が主流といえよう。 ところが、その後発にあたるSD カードでライト・プロテクト機構が「復活」した。 ただし、microSD では、メディアの大きさの問題(小さすぎる)があってか、ハードウェアでの Lock 機構はない。

 読み込み専用というメディアは、たとえば、コンピュータ・ウィルスの感染が防げるということで、それなりに意味はあるだろう。 しかし、「メディアたるもの、ハードウェア的な書き込み禁止機能を備えるべし」という謎の脅迫観念(?) があるようにしか思えない。

 やむなく、セロハンテープを細く切って、ノッチが Lock 側に移動しないように溝を覆っている。 セロハンテープが PC やデジカメ本体と少なからず接触・擦れる可能性があるため、SD カード・スロット内に破損したセロハンテープが付着しないか心配だが、今のところ、それは生じていない。 とはいえ、定期的にセロハンテープを張り替えるべきだろう。
 冒頭のように、Lock 解除側の状態にしてノッチを折ってしまいたいが、何らかの原因で書き込み禁止状態になってしまったときに、それを解除するのが恐ろしく面倒になるか、あるいは不可能になってしまわないかが不安なために、実行したことはない。


横断歩道における車の停止

 先日、車の運転中に、パトカーに後ろから呼び止められた。 横断歩道での歩行者優先のための一時停止を怠ったからである。
 実は、信号のない横断歩道のところに初老の女性がいるのは気づいていた。 しかし、その女性は渡らないという意思を示すがごとく、一歩下がった。 それを見て、そのまま通過した。
 その状況を警察官の方に伝えたが、「渡ることを思いとどまらせることが問題」という旨を仰った。 確かにその通りである。 そのときは、注意ということで、検挙までには至らずに済んだ。

 さて、確かに警察官の方の仰る通りであり、交通弱者を優先すべきである。 ところが、それ以降、どうにも気になっている。
 自分が歩行者として信号のない横断歩道を渡るときに、車が止まってくれるときがある。 そのとき、私はどうするか。 小走りで横断歩道を渡りながら、頭を下げる。

 車を待たせている以上、のんびりと歩いて渡るわけにはいかないという心理が働く。 もしも、これが特にお年を召した方が、そう考えたときにどうなるか。 急いで渡ったとき、もしも、その「焦って横断歩道を渡る」ということにより、転倒して怪我をしたとしよう。 その責任は、誰が取るのだろうか。
 「早く渡れ!」という態度を示したり声を発したりするはマズいというのは明らか(早く渡ることを強要)だが、かといって、完全に停止してじっと歩行者が渡るのを待っているだけの車が加害者として扱われるのも、たまったものではない。
 ドライに切り捨てれば、当該者が「勝手に転倒した」と言えなくもない。 しかし、果たしてそれだけのことなのだろうか。

 私は、かつて、自動車の運転免許を取り立てのときに、父親を助手席に乗せて運転したことがあった。 その状況において、ある比較的大きな交差点で、赤信号で停止した。 自分は直進するつもりだが、正面のダンプカーがウィンカーで右折するのが分かったので、譲るべく、停止したままヘッドライトをパッシングして合図した。
 父は長年、ダンプカーやコンクリート・ミキサー車などを運転する、「運転のプロ」であった。 この私の行動に対して父は、こう言った。「譲る気持ちはよいことではあるが、自分が邪魔になっているかもしれないということに配慮しなさい。」  つまり、自分に後続車がないときは、さっさと直進して通過した方がよいということであった。 特に、ダンプカーのような大型車であれば、初動が遅いので、停止状態から完全に右折するまでにそれなりに時間がかかる。 一方、直進車がたった1台であれば、その通過を待ちつつ、交差点の中央付近までのろのろと進むことで、そのまま円滑に右折できるのである。 父からの教えは、教習所では習わなかった、実践的な教えであった。

 これと同じように、自分に後続車がいなければ、横断歩道の地点をさっさと通過した方がよいのではないだろうか。 ドライバーは、歩行者が転倒しないかハラハラしないで済む。 横断歩道を渡ろうとしている人も、慌てずにゆっくりと道路を横断できる。 お互いが気持ちよく通過・横断できるのではないだろうか。
 もちろん、前述のように、交通弱者を優先すべきである。 しかしながら、停止することにより、慌てさせることや、まして、怪我をさせることは、果たしてその人のためになると言えるだろうか。 横断歩道の手前で止まることが、全く逆に、害悪になるのではないだろうか。 お年寄りが怪我をした場合、それをきっかけに寝たきりになる危険性もありうる。 つまり、「場合によりけり」と考えている。 もちろん、全員が「自分はさっさと通過した方がよい」と考えれば、道路を横断したい歩行者はいつまでたっても渡れない。 だからこそ、先頭の車は止まる義務がある。 その一方で、明らかに後続車がいない場合は、車はさっさと通過した方が、少なくとも横断者の「心理的な邪魔」にはならないのではないだろうか。

追記:道路交通法 第38条は「信号機のない横断歩道で、人や自転車が横断または横断しようとしているときは一時停止しなければならない」と定めています。そのような状況において車が一時停止するのは、マナーというレベルではなく、義務です。


屋外でのタバコ

 タバコ。 自分にとっては最悪な「敵」である。 ニオイ。 副流煙の害。 何よりも、「周囲の人が迷惑しているにも関わらず、本人はお構いなし」というのが、どうしようもない。

 先日、朝、駅の連絡通路でタバコに火をつけた馬鹿者がいた。 繰り返し、あえて言う。 馬鹿者がいた。 かなり混雑している状況下である。
 また、夕刻、駅の連絡通路の階段でタバコに火をつける馬鹿者もいる。 こちらは、結構な頻度で遭遇する。 階段の周囲には壁・天井があり、半閉鎖空間である。 本人以外の全ての人が迷惑するということが理解できていない。 いずれも、頭の思考回路が異常をきたしているとしか考えられない。

 謎がある。 自転車に乗って、タバコを吸っている人を見かける。 これは、夕刻、帰路についているときである。
 明らかに、迷惑行為防止条例違反であるが、それ以上に気になることがある。 その本人は、タバコの吸い殻をどうするつもりなのだろうか。 素朴に考えれば、そのままどこかに捨てているとしか考えられない。 もしそうであれば、放火未遂犯としても、検挙されるべきである。

 ちなみに、警察署で、車からのタバコのポイ捨ては放火未遂として逮捕できるのかどうかを伺ったことがある。 結論から言うと、「難しい」というか「無理」ということであった。 細かい内容は大分記憶が薄らいできたので説明しきれないが、とにかく余程の証拠を揃えない限り、逮捕には至らないようである。
 どうすれば逮捕できるのか。 タバコの吸い殻の摘出(本人の DNA 鑑定が必要だろう)と合わせて、今どきならば、ビデオ撮影の映像を物的証拠として突きつけるしかなさそうである。 この文章を読んで「お、そうなのか。じゃぁ、大手を振ってタバコをポイ捨てできるじゃん」と思ったアナタ。 人として、間違っている。 人間レベルが、かなり低いとしか言いようがない。 直ちに、考え方を改めるべきである。 というか、そもそもタバコを吸うのをやめろ。


電車の車内における傘

 雨降りのときは、多くの方が憂鬱な気持ちになるだろう。 それに拍車をかけるのが、電車の車内における傘である。 もう、最悪である。

 頼むから、カバンにかけるのはやめて欲しい。 電車の揺れによって、傘が振り回されるのである。 それが、足に当たる。 濡れるのもさることながら、うとうとしているときに「攻撃」されると、かなり腹立たしい。 もう、迷惑行為防止条例で検挙して欲しいくらいだ。 傘は、責任をもって、手で持て。

 ちなみに、雨のついた傘を、たたんでから軸に沿って回転させている人がいるが、明らかに、雨粒は落ちていない。 開ける・閉じるを素早く2〜3回やるだけで、かなり雨粒を飛ばせる。 もちろん、人がいない方向を見定める必要がある。


電車の車内におけるリュックサック

 特に、朝の通勤時、極めて不愉快な思いをすることがある。 バッグやリュックが自分の体にぶち当たるのである。

 バッグの場合、大抵の場合は女性で、横長タイプのものである。 肩にかけたそれが後ろに出っ張る。 それが自分に当たる。

 リュックの場合は、往々にして、もっとたちが悪い。 これは学生が多い。 前述のバッグのときは「小突かれる」程度であるが、リュックの場合は当たる面積が大きく、「押される」感じである。 しかも、友達と会話するときに、横を向くのである。 こうなると、最悪である。 完全に、自分の体にリュックがぶち当たり、よろけそうになることもある。 しかも、時折、窓側を見て、再び横の友達を見る場合は、さらに勢いがつく。 注意をしようとした矢先に、偶然にも前の席が空いて座れた。 ということで、当該者への注意は、未遂状態のままである。

 リュックを背負う人は、特に、後ろ、横に注意を払うべきである。 混雑時には、前で担ぐか、網棚に載せるか、せめて足元に置くべきである。 それができない人は、リュックを使うべきではない。
 リュックを前で担ぐ方がいらっしゃる。 これは女性が多いが、男性も女性も、周囲に気を配れる、素敵な方だと感じている。


saito@beam.kisarazu.ac.jp