Date: Sun, 3 Dec 1995 16:20:44 +0900

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bogomil's CD collection #1         [―――――――◎]
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ラフマニノフ:《ヴォカリーズ》(チェロ版)
心をなぐさめる弦の響き
 
 現代社会は、様々なストレスに満ちている。ストレスには、よいストレスもあるら
しいが、どちらかというと、悪いストレスの方が多いような気がする。混雑した通勤
電車、うるおいのない都会の環境、決まり切った仕事、職場の人間関係。不幸とはい
えないが、かといって幸福とも感じられない、先の見えた人生…。このような状況で
、私たちは、精神的に疲れ、そして音楽になぐさめや安らぎを求める。私たちは、そ
れぞれ、心に何か弱さがあり、その部分を補うために、音楽を聴くのだろう。そして
、もしかしたら精神的に極めて強靭な人は、音楽を必要としないかもしれない…。

 ところで、桜林仁著「生活の芸術」(誠心書房)には、精神医学の分野での音楽の
効能について、書かれているが、特に憂うつ症に関する、アルトシューラーの説を紹
介している部分は興味深い。

 「うつ病患者は、ゆううつ感から離脱することを求めている。むじゅん[ママ]す
るようだが、この場合、陽気で快活な幸福感にみちた音楽をきかせると、患者はしば
しばいらだってくるのである。そして、短調音楽に、かえってひきつけられる徴候を
示す。短調の典型的な表現は悲哀のムードである。楽器については絃楽器がいちばん
よく、管のたぐいは、噪音に敏感な患者や、不安な状態に苦しむ患者には、適切でな
いことを発見している。アルトシューラーの方法は、うつ病患者の気分を変化させる
のに、まず、リズムのはげしい音楽で注意をひきつけておいて、つぎに、かれらの現
在のムードにぴったりとする哀調をおびた音楽を聴かせる、それから、次第に、暗い
悲しい音楽から明るい音楽へと、曲目を変えていく」(40〜41頁)。

 これは、何も憂うつ症という、特殊な精神的疾患に限らず、なんとなく憂うつな気
分になることの多い、大多数の現代人にとっても当てはまることだ。日頃の音楽の聴
き方をふりかえってみると、うなづける点が多々ある。たとえば筆者の場合、仕事で
疲れて帰ってきたときに、元気になろう、としてアップテンポで快活な曲を聴くこと
は、まずない。むしろ、なぐさめてくれるような、静かで落ち着いた音楽、特に弦楽
器の曲を聴くことが多い。弦の響きは、心を落ち着かせる効果がある。ただし、仕事
で、いやなことがあって、特に興奮しているような場合は、破壊的な現代音楽や、あ
る種のオルガン曲のような厳格な音楽が聴きたくなる。このような選曲は、前述のア
ルトシューラーの説と、ほとんど一致している。

 このことを裏返すと、ある人の好んで聴く音楽を調べれば、その人の精神状態や、
性格といったものが、かなりの程度、明らかになるということだ。一見、明るく、快
活に見えても、カラオケで暗い演歌ばかり歌う人は、心の奥では、暗く、寂しいのか
もしれない。電車の中でもどこでも、所かまわず、ヘッドフォン・ステレオで落ち着
きのないロックを聴いている若者は、どこか、心の中に苛立ちがあるのかもしれない
。つまり、クラシックにせよ、ロックにせよ、ニューミュージックにせよ、マニア的
な愛好家というのは、「音楽なしでは、精神的な安定が保てない」がゆえに、音楽に
極度にのめり込んでいるとも考えられるのだ。

 ある個人が、どのように音楽とかかわっているかは、様々なことを教えてくれそう
だが、しかしだからといって「音楽による性格判断」とか、「音楽占い」というのを
やれば、よく当たって成功する、と考えるのは早計だ。既存の占いや姓名判断は、血
液型とか、誕生日の星座とか、名前の画数とか、ほとんど意味のないデータに基づき
、したがって、誰にでも当てはまるような、当てはまらないようなところがミソで、
どうとでも解釈できるところに、救いがある。もし、占いや姓名判断が完全に当たっ
てしまったら、恐怖である。誰も、自分の未来の姿や、自分の本当の内面を知りたい
とは思っていない。

 さて、ここで「静かな弦楽器の曲」を1曲選んでみよう。楽器は落ち着いた響きの
チェロがよさそうだ。で、候補はいろいろあるが、ここで迷っているとストレスがた
まるから、思い切ってラフマニノフの《ヴォカリーズ》のチェロ版にしよう。演奏者
もいろいろだが、独断で、ハインリッヒ・シフの演奏*。月並みな表現で申し訳ない
が、「心がやすまる」演奏だ。蛇足ながら、この曲を取り上げる、ということは、筆
者もかなり疲れているということかもしれない。

Discography:
*Rachmaninoff:Cello Sonata "Vocalise"(Heinrich Schiff), PHILIPS 412 732-2

94/01 rev.95/09